● コロナで救急で運ばれて1ケ月間入院した重症者の体験です。2021年4月の体験です
コロナで救急で運ばれ1ケ月間入院した体験
● 自己紹介とそれまでの生活
● 団塊の世代、一人暮らし、持病は前立腺肥大。近所の大病院に年2回行くけれど薬は飲まない。
基本的には薬は飲まないでいけるなら飲まないという考え方。。だから血圧の薬も半年に1回だけ。。
● 人間ドックにも一度は行く。2年前は大腸ポリープの切除手術をした。
お酒も飲んでいたがコロナになる2ヶ月ほど前に止めた。弱くなって暴走したから。タバコも5年前にやめた。
● 食べ物は糖質制限の食事をしているので、血糖値も110~130位。体温は普通の人より低い目 。体重も70kg前後だった。
自宅の食事は冬は鍋物中心。夏は炒めもの中心。たまには外食。という生活です。
● 毎日ウォーキングは1時間近くしていた。たまには遠くへ行き2時間位歩いたり。5時間かけて堺市駅から大阪城公園まで歩いたり。 していた。そして仕事しているので車で出かけることある。 ワクチン接種券が来たところ接種日はまだ先だの話だからワクチンはしていない。
● ここで体験を話せるのは後日記録に残そうと入院している時に、わからないことは看護士さんに色々聞いてメモしていたからです。
コロナ体験
● まさか自分がコロナになるとは想像できなかった。
今は(ワクチン打った?)とか(2回目ワクチンは終わった)とか言っているけれど、僕がかかった4月末頃は世間では(PCR検査受けた?) とかが話題になっていた。
医療従事者しかワクチンを打っていない時のことです。
● いま考えてみればそれほど消毒とかはしていなかった。スーパー行っても、コンビニ行っても、居酒屋行っても。お店の人に言われてから消毒していたタイプだ。
● もちろん自宅にも消毒液があり、車にも消毒液は積んでいる。 そして表に行くときはマスクしている。(現在は部屋の中もすごく除菌している)最初の頃のアルファ株かもしれない。今はデルタ株とかオミクロンとかマスコミで言ってますけど。
● 4月28日(水)朝10時頃PCR検査している近所のクリニックに行った。
(初めて行ったクリニックだけど、周りの人が「あそこの○○医院はPCRしてくれるらしい!」という話を聞いたから行った。 熱があるからでも体調が悪いからでもない。陰性だと言われれば安心と思ったから行った。
● 30分もせずに「陽性です。コロナです」と言われた。 それまでの何日間は少し咳をしたり、朝寝坊したり、ここ何ヶ月の生活よりか少し違っていたのを思い出した。少し生活が変わったときから陽性になっていたのかもしれない。
● それからが大変。病院から保健所に連絡が行って救急車が自宅に来て。3人の救急隊員が部屋に入りドアも窓も開けて換気をしていた。
● 大阪府の感染者が1260人位に日だった。 ところが入院先が決まらないので朝の11時に来た救急車と救急隊員が我が家の内外をウロウロしていた。やっと行き先が決まったのは12時間後の夜の11時。
● それから出発して35キロメートル北にある豊中市の市立病院まで運ばれた。 しかし、その頃の運ばれた様子は僕の記憶には無く、それから2週間ほど意識不明で病院の集中治療室だった。(しかし、後で聞いた話によると、心配して自宅の表から歩いて出ていったらしい。表で待っていた友人等は「歩いて救急車に乗っていたよ!」と後日言っていた。
●入院直後
● 退院直前
集中治療室(ICU)
● 豊中の病院に入ってからは3日間ほど一般病棟にいてスマホで連絡していたらしいのだがそれも記憶にない。しかし後日写真とかラインのやり取りが残っていた。
● その後、集中治療室。僕本人は何の記憶もないからどんな治療されたのかもわからない。 痛くもないし苦しくもない。口に酸素と点滴ばかりの生活だったと想像する(重症者の部類だ)この間の2週間は集中治療室だった。
● 集中治療室では食事があるわけではなく、点滴と酸素と身体中にパイプを付けられていた。トイレに行ったとか食事したとかの便器を置かれていたとかは僕の記憶には何もなかった。
● 僕は夢を見ていたようだ。まるで三途の川を歩いているようだ!苦しくもないし楽しくもない。痛みや苦しさは別のところに行ったのかもしれない。ちょっとした夢ではなく夢が長編の物語になっていた。 今でも夢は覚えている。皆さんは夢を見るのは瞬間でちょっとだけ見てすぐ忘れてしまうのが普通だと思うのですが。僕の場合はずっと覚えています。
● 集中治療室は個室だから居心地はいいが全然動けないからどうにもならない。
● 10日ほど経過して少し意識がもどって看護士さんと意思疎通が出来るようになったときに、あと4日くらいで一般病棟に移ります。 一般病棟では携帯が使えますと言われた。
一般病棟
● 一般病棟に移ったは5月12日。12日間集中治療室だった。(後で看護士さんに聞いた。) 一般病棟に行っても、声がでなかった。看護士さんが「血圧測ります。血糖値測ります、体温測ります」とそのつど何度も来るのだが、別に返事をしなくてもできた。
腕を出したり脇に体温計入れたりは自分でしていた。
● ある日の朝、「山田さんお名前言ってください」と言われるのだが声が出ないから。看護士さんの手のひらに人差し指で名前を書いた。 「昨日は一言も話してくれなかったのに、今日は名前を言えるようになったね」というのを聞いて、次の日から意識して(名前と生年月日と年齢をいうようになった。)
● 生年月日は間違えないが、年齢は83歳と思って「83歳です」と言っていた。 そんな日が一週間ほど続いた。10歳以上も年をオーバーに思っていた。今の自分の年齢は分からなかった。(本当は71歳)。
スマホが普通に動いていたら年齢も日時も間違えないのだが。
●「ここの病院わかりますか?」とも言われた。僕は最初は京都の日本海に面した温泉の近くの病院だと思っていた。(最初は日本海に面した温泉のある病院で養生。その後、豊中市の病院。。その後、堺市の病院。 このあたりが僕の集中治療室で夢を見ていたのと現実がゴチャまぜになっている。
● 朝昼晩の食事も出るのだが、あまり食欲もない。ほとんど残した。8割は残した。美味しくないし冷めている。僕は好き嫌いが僕は多いほうなんです。
第一は寝たきりなのでお腹が減らない。食べたく無い。 ヨーグルトや味噌汁。煮物を少しだけ食べた。
● 一般病棟ではリハビリの先生も来て歩行器で歩くのが廊下だけ。30m位を往復するだけ。それを2回するくらいだ。
● 部屋に戻ってベッドで腰掛けてスクワットしなさいと言われるけど。途中から部屋にもう1台ベッドを入れるようになった。入院患者が3人部屋になった、 その人は窓側に場所を取って、僕の移動出来るところはほとんど無くなった。
● 病室の窓のそばで外の景色を見たのは1回だけ。 3人入れると、隙間が無いので車椅子や移動レントゲンの機械を使うときには隣の人のカーテンを開けてなければ機械が入らない状態の小さい部屋だった。 僕は部屋を変えてほしいと思った。夜だけでも 談話室や廊下で寝たいと思った。一睡もしなかった夜もあった。
● 昼間にリハビリするときに歩行器でナースステーション前を通るときはガラス越しだけど、大きな声を出していた。(606号山田リハビリしていま~す)と。(山田さんだ、歩行器で、歩いて行くわ。)(山田さん。大丈夫?)と事務をしているナースさんが拍手をくれた。
● 病室はTVだけしか見るものがない。ほんとうに鬱病になりそうだと思った。 一般病棟ではスマホも使える。いままで15日間、外部との接触とか電話とかできなかったが。メールやラインくらいできるようになると言われた。しかし、バッテリーも0になっているし充電しても一からの設定なので2~3日使えなかったし、使い方も忘れてしまっていた。
● もちろん携帯もPCも持参で入院していたのが、Wi-Fiは飛んでいなかった。 僕に連絡とろうとしていたスマホの履歴がたくさんあった。ラインもほとんど見ていない。電話もかかってくるのだが声がでないので電話は取れない。
● 携帯からの電話はショートメールで(入院しています。声が出ないので電話できません)と送った。自宅電話、会社電話は全然取らなかった。 皆が心配してくれるのがわかったからうれしかった。
● 同室の人は面会もできないからラインでビデオ通話できる人は家族との交信には一番良かった。声を聞くだけではなく、顔を見ることも大事だなあ!と思った
退院したのは5月25日
●(コロナで病院に入院していたのは27日間。一般病棟に行ってからもほとんどベッドで寝ているだからお粥も出たけど食欲がない。
● パルスオキシメーターがナースステーションにわかるように有線で体に繋がれているで動けない。食欲もほとんど無い。 「食べないと退院できないよ!」と言われたので急にご飯を朝も昼も食べた。血糖値が急に180やら200になってしまった。こんな数字は人生初。
● 次に廊下をリハビリしているときに僕が看護士さんに(血糖値測るのここでもいいよ!)と言えば、血糖値を測りインスリンも打たれた。。人生初だったインスリンは廊下で打たれた。その一度だけ、その日から炭水化物は取らない食事ににした。
● コロナの病院のフロアーはそこ以外に売店も喫茶部にも行けないしくみ。楽しみはなにもない。同室の人もうなされていた(今日退院する。。もう出る!俺は忙しい!と)身体中にパイプばかり繋がれているのに。
● ほとんどベッドで寝ているか?ベッドで座っているか?しか自由は残されていない。一人で廊下を歩くのも、禁止されている。(一人で廊下を歩いて、倒れたら大変だから)
● 僕は病室の入り口にある個室のトイレを20cm位オープンにして長いおしっこをしていた。お湯でお尻を流しながら温めていた。気持ちいい。ときには電話もそこからしていた。
それを終われば向かいの洗面台に行きお湯をいっぱい出して 腕をヒジまで漬けて暖めていた。体を暖めているのが気持ち良かった。
辛かったのは痰の吸い込み。
● 辛かったことは痰を出すこと。出せる人は喉をゴロゴロ鳴らして出せるらしいのだが、僕はすごく大変だったし、嫌いだった。夜寝ているときに咳をする人(痰(タン)がからんで深夜でも、口の中に水を少し入れて。
●(歯医者さんのバキューム吸引器みたいなので吸い出す。)これが辛かったなあ。看護士さんに(今は深夜3時ですよ。勘弁してくださいよ!朝しましょう!)と、よく嫌がっていた。 隣の人は深夜寝ているときに痰がからんで咳をしている。(自分もそうだったのだろう))
● コロナ専用病棟って同じ病院に有るのだが、病院内の行き来もできないし、刑務所みたいな鉄のドアがついているし、建物が一緒なだけだった。
● お風呂に入る(シャワーだけ)3回ほどできた。。入る前のの元気度が50%とすると15分ほどシャワーで頭も洗い体も洗いお風呂から出たときの元気度は200%だった。だから体を暖めるのが一番体調がよくなった。
● 体重が減った
● 集中治療室では点滴のみの生活。一般病棟に移っても、ほとんど寝たきりの生活なのでお腹は空かない。ヨーグルトとかゼリーのみの生活していた。
● 朝から丼一杯にお粥とか?お昼も同じ量とか?出してはくれるのだけど。ほとんど食べなかったなあ!動かないし動けないのでお腹が減らない。
● 入院前は平均70kgの体重だったが病院では体重計測はなかったけど、退院時現在は58.0kgになった。マイナス-11kg。血圧も下がったし。普通の標準的な体重になった。今はそれから+5kgになり63kgになった
● 保健所の配下
●入院費は無料だよ!と病院では言われていた。しかし何の自由もないし、普通の病院のように先生と相談して退院とかの自由はない。 医師がそろそろ退院かなあ?と思っても、自宅のある保健所に連絡して調整する。
● 医療逼迫と病床不足
テレビではベッドの数が50%以上になれば緊急事態だ!とか言っているが。入院してわかった。 それに看護士さんも足らないのでナースコールを押してもなかなか来ない日と、すぐ来てくれる時間帯がある。僕は今日は看護士さんが多い日だとか朝10時まで待たないと来てくれなさそうだとかがわかってきた。 僕は早く出たい。退院したいと文句ばかり言っていた。早く帰って少しでも仕事の処理をしたかったからだ。
● リハビリのために専門病院に転院したほうがいい。
コロナは治っていますが、1ケ月入院して筋肉が無くなっっているので自宅近くのリハビリ専門病院へ1ケ月位転院しませんか?と言われた。僕は拒否した。
家族がいない人は帰したくない。いても高齢で嫁も高齢の人は帰せない。家族に負担がかかる。僕は離れたところに看護士の実姉がいるが、ケアマネージャーに連絡取るわ。と言ったので退院させてくれた。 拒否したので後々に失敗して自宅で再び倒れることになる。 コロナの後遺症だ。(どうしても自宅で週に1日か2日仕事ですることがあったから帰りたかった。)今考えれば失敗したことになる。重症から復活した高齢者はリハビリもきっちりしたほうがいい。箸袋も開けられないし、お茶のキャップも開ける力が無くなっていた。缶入りのお茶のプルトップもオープンできない
退院した。やっと堺市に帰ってきた。
● 自宅の階段が13段を手すりを持ち登れたので良かった。 自宅にケアマネージャーとヘルパーさんも来てくれたが、僕はお風呂で体を温めたかった。
● 足湯でもいい。だからお湯のでる部屋がいいので下の部屋では寝なかった。 しかし、部屋の移動がすごく時間かかった。普通は1分で動けるのに。隣の部屋に行くのに3時間もかかったりしていた。
● 頭ではパソコン立ち上げてと思っても、移動は体が動かないから1時間後とか2時間後になる。 これは僕も想像できなかった。周りの人に手助けしてもらいながら生活していた。室内での立ち上がるのは赤ちゃんハイハイで周りを持って立ち上がる。このときは膀胱から腎臓も悪くなっていたのだろう。
コロナの後遺症(記憶あいまいに)
● 記憶がICU(集中治療室)に入って夢を見ていたので、意識が戻った現実と曖昧になってどうなったかわからなくなった。
● コロナになる前に仕事で訪問した場所で約束したことは忘れてしまう。実姉と電話で約束して一時借金したを退院したとき に払うと言ったと僕は思っていたのに、そんなお金は立て替えて居ないよ!と言われた。
● 仕事先に請求書を出したか?まだかもわからなくなってしまい(先月請求書渡していますよね?)と確認しながら電話したり。
● もの忘れみたいなものだから認知症かな?と思うのだが、そうでもないらしい。完治まで1年位かかるらしい。でも半年すればかなり改善すると病院では言われていた。
● 最初に言ったように病室のベッドが日本海の近くの温泉病院のベッド、そのまま豊中の病院のベッド、そのまま堺市の救急病院のベッド。僕は移動した覚えがないのにあちこち移動させられいるなあ!と思った
● コロナにかかった原因
自分の生活環境は普通にマスクして、行動していた。お店とかに入れば、消毒液やら手のひらに少しだけ付けての生活。 部屋中に除菌スプレーとかを撒くとか言うことはなかった。
反省点はだから意識的には(周りはコロナの菌ばかりだよ!)という意識はなかったと思う みんながくる共同部屋は。そこは物置にみたいな状態になっていた。
誰かが注意して消毒するわけではなく。誰も消毒もしない。たまに誰かがする。 だからそこによく来る人もコロナになってしまった。いつも風通しをよくすればいいのだが締め切っていた状態なので。。 あちこち僕は行っていたので、陽性になった日の何日か前にコロナになっていたのだと思う。
● 体操の内村航平選手は陽性になったのに4日後に陰性になった。免疫力があればコロナも退散するし防御できる。
● 入院したときに12時間家の前で救急車いたから有名になってしまった。 町内の人は全部知っている。(こういう話は大げさに伝わるから)うそ話も大げさに伝わるから。(笑)
● 今まで親しかったのに怖がって近寄らない人もいる。全然電話もなにもない。そばに近寄ればコロナになると思われている。ネットも何もしなくて他人の風聞だけで判断している人は特にそうだ。 まさに前科者みたいな扱いだ。。
● コロナで退院してから自宅にワクチン接種の接種券が届いているので、保健所に聞いてみた。抗体があると言われているので。ワクチン受けたほうがいいか?受けないでもいいか?保健所はわからない。「入院していた病院に聞いてください」だった。病院では接種してくださいと言われた。結局1回目も1ケ月間隔あけて2回目もワクチンを受けた。
● コロナになって良かったことは僕はもう2回命を無くした。死んだと思っている。
運良く生きているが、ずっと思っていたのは副作用が重く。身障者のような生活にならないようにと願っていた。そこまで健康を戻したいと 思っていた。 自分で生きる死ぬが身近になった。
● まだ71歳だし80歳になれば考えるみたいなことが無くなった。これからの残りの人生をどのように社会のために使おうかと考えるようにな
● 家族って大事だなあ!たくさん子供のいる人は長者様と言うんだが、そうだなあ!と思う。自由に生きたいとも思うのだがやはり血のつながっている役所が認める家族って大事だなあ!と思うようになった。
備考 三途の川を見たとは
● 僕の見た「三途の川」とは 救急で運ばれたのではなく。特急くろしおで最後の列車8号(なぜか8車両)の最後に乗車していた。旅行用のかばん1個だけ持参して電車は大阪環状線から京都の丹後半島の海辺の温泉の村に 来た。
そして海辺のひなびたの観光地の病院兼温泉にきた。そこでは入院ではなく夜の高級料理店でお酒と料理を楽しんでいた。僕の乗っていた列車を一両ずつ切り離して3両目に乗っていた。
帰ってきたのは後ろから3両目の僕の車両。 電車の車両で葬儀が始まった。最後尾の車両は霊柩車両だった。お坊さんも来てスタッフも来てかかりの人もいて、有名な関西出身の芸能人もいた。なぜかこのあたりの名士の人が亡くなったのだろう! それはそれは長い儀式だった。
黒い壁にスポットが当てられ、歩いて歩いて左の方。川上の方へ歩いていく。わかりやすく言えば夜9時ごろの一級河川(大和川)の河川敷のススキが背丈まである人気のないところを川上のほうに向かって歩く。 僕は列車3両目だからその儀式を見ていた。僕のバッグは列車の最後尾に置いてあったのだが、わからなくなるまえに車掌さんが僕のをわかりやすく部屋の隅に置いてくれていた。 その夜も丹後半島の高級料理店ビルに連れて行ってもらった。なぜかこの儀式には彼女のNちゃんも同行していた。
そんな長い葬儀が続いていたが僕は部屋の中で これは個室の病室で看護士さんや医者の動きを見ていた。ガラスの向こうは病院のスタッフが忙しくしているが、こちらに声は聞こえない。
2週間ほど集中治療室(ICU)だったのでしかし夢だったので電話もNちゃんにかけて話をしていた(実際は電話はかからない) 「いつもは電話かけるの楽しいのに、今日はしんどいからあまり楽しくないわ」と話したような気がする。 それに個室なのに一緒にコロナになったのというYちゃんも同じ部屋だった。
「Yちゃんも同じコロナになったのか?」まるで車椅子で隣の部屋に遊びにいくようにベッドを僕の部屋に持ってきて話をしていた。(現実は入院もしていないし、コロナにもなっていない) =======================================
退院して再度入院
● 吹田の友人に堺市まで送ってもらって帰れた。2階まで階段を上がれた。帰ればなんとかなると思ってケアマネージャーやNさんが部屋を片付けて寝れるようにしてくれていた。
お風呂はシャワーしたり足湯にしたりしていた。体暖めたら気持ちよかった。 しかし隣の部屋まで移動するのに1時間以上かかったことが多かった。
● その時は副作用がでてあちこちに障害が出ていたらしい。僕は時間が経過すれば治ると思っていた。 1週間ほどしてからまた、倒れた。
何の意識もなく自宅でシャワー浴びてからそのまま倒れていたらしい。救急車で運ばれたのは後に知った。
● 入院して意識不明で1週間、気がついて病気の症状を主治医に聞いた。前立腺肥大で尿閉になって腎臓に影ができてました、そのままでは脳梗塞・心筋梗塞になりますよ!と言われ。 嫌な薬を飲まないと前立腺の薬を飲んでいた。いままで別の病院に行って年に2度診察受けていたが行っていたが五年ほどPSAの数値が高いがこのままで行きましょうという事だった。
● コロナの副作用で持病がある人は大変らしいが、 僕の場合は前立腺から尿閉となった。入院は2週間ほどだった。しかし、コロナの入院と合わせて50日位入院したので筋肉が無くなったというか?歩くのも大変だった。しかし部屋の中では自分で立ち上がれないから赤ちゃんのようにハイハイ歩き。 コンビニまで50mくらいなのに行けたのは1週間ほどかかった。 Dダイマーという血栓が固まっている数値は56.2度目は4.0 三度目は0.5になった。正常数値は1.0以下だ。40日くらいで正常になった。あとは前立腺の手術するか?薬で治すかだ。。
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国会議員 竹本直一さんの例
国会議員 竹本直一さんの新聞記事を引用
新型コロナウイルスに感染し、入院した自民党の竹本直一前IT担当相(80)は1日までに産経新聞の取材に応じ、「三途の川をのぞいてきたようなものだった」と振り返った。軽症から急変し、意識を失ったという。重症化しやすい高齢者に当たる竹本氏は「絶対にかからないほうがよい」と述べ、感染防止の徹底を訴えた。 --入院の経緯は 「基礎疾患はなく、初めての入院だ。昨年12月23日夜、体温は36度台前半で、ほとんど自覚症状はなかった。翌24日朝はせきが出た。事務所でコロナの陽性者が出ていたので、秘書に勧められ、都内のかかりつけ医に行った。重症で即、入院。病院に着いたあたりから意識と記憶がない」 --治療は 「集中治療室(ICU)に入り、『人工心肺装置(ECMO=エクモ)をつけてよいか』と聞かれ『やめてくれ』と答えた。そこは覚えている」 --症状は 「ずっと譫妄(せんもう)、つまり妄想の世界の中という状況だ。例えば、ロンドンの首相公邸に招待され、屋外に出て『寒い』と感じ、意識が混濁している中で寝てしまう。起きるとICUにいる。両手はベッドにつながれて身動きが取れない。点滴だけで食事はできない。うめいたり、『人を呼んでくれ』と言っても返事がない。(年末年始をまたいで)10日間ほど続いた。息苦しさはなかった。後遺症もない」 --その後は 「1月3日か4日にICUから出て、感染症病棟に入院した。原則、部屋から出てはいけない。つらかった。2月4日に退院し、12日までリハビリのために入院した。体重は6キロ減り握力は8キロにまで落ちた。携帯電話は重く感じ、牛乳のふたが開けられなかった。筋力トレーニングや歩行訓練をした。日常生活に支障をきたす人もいると思う。絶対にかからないほうがよい」 --振り返って 「自分の体力を過信していた。医師には『もう少し遅かったら駄目だった。奇跡だ』といわれた。三途の川をのぞいてきたようなものだ。医療従事者と秘書に感謝したい。感染する前にワクチンができていたら打っていたと思う。コロナに感染しない、させない行動を徹底してほしい」
せん妄(もう)
● せんもうになっていたんだ。コロナで入院いていたころは。そんな言葉も知らなかった。
- 時間や場所の感覚が鈍くなる
- 今日が何月何日かわからなくなる
- 自分がどこにいるのかわからなくなる
- 幻覚が見える
- 天井や壁がゆがんで見えたり虫が這っているように見える。
- その場にいない人が見える。
- 睡眠のリズムが崩れる
- 時間と起きる時間が不規則になる
- 昼間に眠って、夜に眠れない
- 落ち着きがない
- 何度もベッドから起き上がる
- 繰り返しどこかへ行こうとする
- 転んでしまう
- 話のつじつまが合わない
- 過去の事を今の事のように話す。
- 現実と違うことを話す
- 感情や行動のコントロールできなくなる
- 荒っぽくなったり、怒りっぽくなる。
- 体についている治療のための管を(知らずに)抜いてしまう OPTMstudyより
● これが(せん妄)の患者の変化ですが僕は合致していることがたくさんあった。
● テレビはあったのだが、日を気にしなかったから、今日は何曜日とか何日とか看護師さんから聞かれたがわからなかった。
●自分の居場所は?本来は豊中の病院なのだが、京都の舞鶴の病院だと思っていた。そして急に福岡の海岸にいた。でも入院は舞鶴だと。。しかし、本当は大阪の豊中です。堺市の病院にいたときも豊中の病院だと思っていた。
● 天井に模様のように書かれていた草書のような文字は人の名前が書かれていたと思っていた。変な天井だと思ってスマホで撮影したのだが、スマホには残っていなかった。
● 親しい友達と同じ部屋に同じ病気で入院していて向こうから話しかけてくるので、同室で頭を同じ向きにしてベッドに寝ながら談話していた。
● 一睡もしなかった日もあったし。爆睡の日もあった。寝なかったといっても一時間ごとに気がついて起きていた。
● 現実に出来ないことなのに(ICUでは電話ができない)のに電話で話していた。約束もしていた。後で相手に聞いたら「そんな事していないよ!」と言われた
● 再入院したときには主治医や看護師さんに文句ばかり言って怒っていた。
このような症状だったのです。